京都嵐山 / othree
“私は元気と言う病気にかかっているんだ”という『瀬戸内寂聴』さんは、作家として僧侶として、迷える女性たちの味方でもあります。
6月27日(月)の白熱ライブビビットでは、「瀬戸内寂聴スペシャル対談」として“生きるとは何か、死ぬとはなにか”を特集しました。
京都の800坪ある『寂庵(じゃくあん)』とは
京都市右京区にある『寂庵(じゃくあん)』は、瀬戸内寂聴さんが51歳で出家したときに作られたました。
800坪ある敷地内には、住居と事務所、お堂があります。毎月法話が行われているお堂は、160人の定員なのに2000人の応募があるほどの人気です。
広い庭には、ファンの方から頂いた木や草が植えられています。お気に入りは様々な“お地蔵さん”たちです。
話題のニュースをメッタ斬り!
東京都の知事であった舛添要一について、“みっともない、往生際が悪い”とメッタ斬りした。
みっともないね~‼往生際が悪いって言葉があるじゃないですか、それを思い出しましたよね、凛々しい顔をしているからね、そんなひとじゃないと思ったけどね
ただ私は元から、ちっとも信用していなかったからね、していることと人相ね、ハンサムですけどね、利口そうなこといいますけどね
でもよくない、自民党でお世話になったけど、都合が悪くなったらパッと出ていくでしょ?(野党に転落してすぐに出ていきました)やり方が関西での言葉だと“えげつない”
政治家っていうのはね、民衆が何を望んでいるのかってね、民衆の望むことを少しでも叶えてやろうとするのが政治でしょ。あの人は民衆の声を聞かない!
女を見たらすぐに分かる!しょっちゅうしょっちゅう女変えたりするのね、あっちもこっちもっていうのはね
普通は小説家からだったら面白いですよ、だけど政治家としては困るわね
世間をにぎわした有名人の不倫問題!
5人との不倫があったと認めた乙武さんについて“小説家になれっていうの”とメッタ斬りした。
芸能界とかね、小説家になれっていうんですよね、体の悪い彼ね、とても好きだったの私。
何人かいるって、5人いるってことは10人いるってことですよね。あの人ね本当にいい人だっとのよ、私大好きだったの、あんなことで彼の才能がそのまま埋もれたら本当にもったいない!
だから私は小説書けって言ったんですよ、小説家は全部そんなことしてますからね!不倫何てあんたね!不倫っていうけど、人を好きになるなんてね、恋愛っていうのはね、雷と同じだから、落ちてくるバッと上から
あっ!ていったらもう落ちてくるんだから防げないのよ恋愛っていうのは、どうしようもない!
そのときに焼かれてしまうか逃げるかね、その選び方だよね
瀬戸内寂聴の波乱万丈の人生とは
1922年(大正11年)に徳島県で生まれました。学生時代から小説家を目指します。東京女子大学に在学中にお見合いをして、21歳のときに結婚しました。
結婚してから夫の赴任先の北京で、女の子を出産しました。1946年に帰国した後で、夫の教え子と不倫の関係になりました。娘が3歳のときに、夫と娘を捨てて京都に行ってしまうんです。
年下の青年との命がけの恋も長くは続きませんでした!“ダメな人が好きだからね”寂聴さんの方がお金があって、ヒモのような関係になってしまうそうです。
その後、作家である「小田仁二郎」とも不倫の関係になり同棲までしてしまいます。不倫の経験者でもある寂聴さんに“不倫の行き着く先に幸せはあるのか?”と聞きました。
私は何度も不倫をしましたけどね、奥さんをね「離婚しろ」なんて一度も言ったことがないし、思ったことないんですよ
雷に打たれたのは仕方がないですよ、打たれちゃったんだからね、人を不幸にしてその上に成り立つ幸せなんてありません!
90歳を超えて死の淵をさまよう
2014年5月に背中と腰の激しい痛みに突然襲われました。「腰椎圧迫骨折(ようついあっぱくこっせつ)」、コルセットをしなければ耐えられない痛みでした。
起きていいることが出来なくて、ご飯も寝ながら食べました。そして、新たに「胆のうガン」も見つかりました!
ガンはね私、あんまり誰でもかれでもガンだからね、誰でもなると思う、若いときにニキビがでるようにね、成長すればガンになると思っていたんですよ
「ガン」って言われたとき、ちっとも怖くなかった。「た、とってください」って言ったの。ニキビみたいなものですよ内臓の、日進月歩、医学はね、術も薬も日進月歩。
本当に進んでいるんですよ、世界中がやっているんだからね、私の若いころはね、肺病・結核、結核がガンよりも恐れられていた。
なぜか結核っていうのはね、若いハンサムな男の子・頭のいい男の子、若いなんともいえない、かわいい女の子・少女がなるの、ブスなんて見たことないね、肺病のブスなんて
寝たきりの状態になって、一時は精神状態も不安定になった寂聴さん!そんな寂聴さんを突き動かしたのは、“もう一度小説が書きたい!”という強い思いでした。
生きるか死ぬかの大病をしたらね、一生懸命考えるでしょうね、今まで当たり前にって思っていた家族がとても大切になるとか
自分の亭主がこんなに愛してくれていたのを知らなかったとかね、そういうことが反省する余地にはなりますわね
闘病生活で変化した“死生観”とは
2006年に出版した「あの世この世」では、こう書いてあります!
私はね、もし地獄と極楽が両方あっても、極楽は退屈そうだから行きたくない(笑)。悪いこといっぱいしているから、どうせ地獄に行くでしょうけどね。緊張感があっていいんじゃないかしら(笑)
病気をしてからは“まっすぐに極楽に行きたい、痛いのはまっぴら”そう考えを変えたそうです。
6月19日(日)法話の会で、自身の死生観について語りました。
私たちは自分が健康だったら、健康のありがたさなんて思ったことないのね、人が病気になったら“かわいそうだね”と思うけども
人が病気になって、お見舞いに行っている自分が健康だってことを思わないの、当たり前だと思っているから
自分が病気になって初めて、健康ってありがたいなって思うんですよね
月に1回行われる法話の会は、寂聴さんに救いを求める参加者がたくさんいます。笑いあり涙ありの法話は、多くの人々に希望を与えています!
元気の秘訣は“食事”にあり
寂聴さんを支える20代のスタッフが身の回りのお世話をしてくれます。元気の秘訣は「食事」にあります。
朝食のメニュー:ごはん・しじみのみそ汁・鮭・たまご焼・いんげんの胡麻和え・タマネギのマリネ・昆布・佃煮・ちりめんじゃこ・煮豆・梅干し・のり・さくらんぼ
夕食メニュー:ごはん・うなぎ・肉野菜味噌炒め・タマネギマリネ・ちりめんじゃこ・スープ・煮豆・昆布・佃煮
1日2食で、夜には大好きなお肉を食べることが多いんそうです。よく笑い好きなものを食べて体力をつける、これが元気の源です!
自身の死について
死の淵から生還した寂聴さんのが思う“自身の死について”とは、
鈍くなるのがイヤだと今思っているわけね、努力はしていないけどね、このまま鈍くなったら困るなって思っています。まだ鈍くはなっていない
早く死にたい、鈍くなって死ぬのはイヤ、早く死にたいって94歳って誰も早いと思わない、生まれるっとことは死ぬために生まれる
だから人に巡り会うことも別れるために巡り会う、それが覚悟できたら世の中怖いものない
瀬戸内寂聴さんの生き方まとめ
ペンを持って原稿用紙の上で疲れ果てて死にたい!それが思想の死に方なんだそうです。“書いているときが一番の幸せ”と言う寂聴さんらしい言葉です。
瀬戸内寂聴さんは、小説家として400冊以上出版してきました。これからも多くの人の心に寄り添い続けるでしょう!
自分の生き方を通して、たくさんの人に影響を与えていく姿がパワフルでステキです。こんな風に誰かのために“言葉”を残していける人になりたいと思いました!
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